2005年 12月 27日
「SAYURI」 |
今日は火曜日で、松本の映画館は毎週火曜日がメンズ・デーと称して入場料が千円となる。その割引料金で映画「SAYURI」(ロブ・マーシャル監督)を見てきた。ロブ・マーシャルはあの凡庸な「シカゴ」の監督なのであまり期待はしていなかったのだが、ある程度まで想像通りの映画であった。
アーサー・ゴールデンの原作「さゆり(Memoirs of a Geisha)」(新潮社)はずいぶん前だがおもしろく読んだ記憶がある。ただ、上下二巻の長い小説を2時間の映画にするのはかなり大変だったようだ。
見終わって思ったことは、「これは映画にはできない話ではないか」ということだった。原作のおもしろさは、恋愛小説の面よりも、ひとりの少女の成長小説(ビルドゥングス・ロマン)という面にあるようにわたしは受け取っていた。それを無理やりハリウッド流の恋愛映画にしようというのはかなり無理がある。
だいいち、芸者と旦那の恋愛といったって、旦那にはきちんとした配偶者がいるはずだ。「夜だけの妻」などというセリフもあった。ところが、そのあたりのことはちっとも描かれない。要するに日陰の花の話で、それにまつわる陰惨な世界が舞台なのである。どうやったって、ハリウッド流のカタルシスにたどり着けるはずのない話なのである。
主演はわたしのごひいきのチャン・ツィイーであるが、はっきり言って彼女には芸者役は似合わない。彼女を形容して「都で一番の芸者」だとか「なんて美しい女なんだ」などというセリフが飛び交うが、白塗りに紅をひいたチャンの顔はちっとも美しくなかった。アジア系の美に対する感受性を持っているはずのわたしにすらそう思えるのだから、欧米人にはまったく美人には見えないだろう。
ずいぶんお金をかけているのはわかるが、チャンの踊り(雪が散るなかで花魁の高下駄を履いて、ぶっ倒れる!!)だとか、着物の着方(肩抜きがまるっきり女郎のスタイル)だとか、日本人の目から見た場合ツッコミどころが満載の映画である。いちいち引っかかるシーンがあまりにも多すぎる。日本風のセットのなかに微妙に中国風の意匠や趣味が混ざっていて、見ていてなんだか気持がよくない。
結局のところ、この原作を映画にしようと考えた段階で、基本的なコンセプトをじっくり考えるべきではなかったか。それが結論である。原作を読んでいれば、足りない部分を補って見ることが可能だが、原作を読んでいない人にはあまりオススメできない映画である。
アーサー・ゴールデンの原作「さゆり(Memoirs of a Geisha)」(新潮社)はずいぶん前だがおもしろく読んだ記憶がある。ただ、上下二巻の長い小説を2時間の映画にするのはかなり大変だったようだ。
見終わって思ったことは、「これは映画にはできない話ではないか」ということだった。原作のおもしろさは、恋愛小説の面よりも、ひとりの少女の成長小説(ビルドゥングス・ロマン)という面にあるようにわたしは受け取っていた。それを無理やりハリウッド流の恋愛映画にしようというのはかなり無理がある。
だいいち、芸者と旦那の恋愛といったって、旦那にはきちんとした配偶者がいるはずだ。「夜だけの妻」などというセリフもあった。ところが、そのあたりのことはちっとも描かれない。要するに日陰の花の話で、それにまつわる陰惨な世界が舞台なのである。どうやったって、ハリウッド流のカタルシスにたどり着けるはずのない話なのである。
主演はわたしのごひいきのチャン・ツィイーであるが、はっきり言って彼女には芸者役は似合わない。彼女を形容して「都で一番の芸者」だとか「なんて美しい女なんだ」などというセリフが飛び交うが、白塗りに紅をひいたチャンの顔はちっとも美しくなかった。アジア系の美に対する感受性を持っているはずのわたしにすらそう思えるのだから、欧米人にはまったく美人には見えないだろう。
ずいぶんお金をかけているのはわかるが、チャンの踊り(雪が散るなかで花魁の高下駄を履いて、ぶっ倒れる!!)だとか、着物の着方(肩抜きがまるっきり女郎のスタイル)だとか、日本人の目から見た場合ツッコミどころが満載の映画である。いちいち引っかかるシーンがあまりにも多すぎる。日本風のセットのなかに微妙に中国風の意匠や趣味が混ざっていて、見ていてなんだか気持がよくない。
結局のところ、この原作を映画にしようと考えた段階で、基本的なコンセプトをじっくり考えるべきではなかったか。それが結論である。原作を読んでいれば、足りない部分を補って見ることが可能だが、原作を読んでいない人にはあまりオススメできない映画である。
by himitosh
| 2005-12-27 16:12
| 映画