2006年 05月 17日
わたしのイタリア(1) |
ここのところイタリアに関するエントリーがほとんどなくなってしまっていたので、不定期で思い出話を書こうと思う。題して「わたしのイタリア」ということで、まずはその第一回目で、イタリアに行くまでの話である。
初めてイタリアの土を踏んだのは1975年の11月のことだから、もう30年以上も前になる。大学院の博士課程1年目だった。身分はイタリア政府が出している奨学金をもらって行く給費留学生である。
留学生の試験は九段にあるイタリア文化会館で行われた。毎年の定員が10~15人ぐらいで、それほど倍率が高いわけではない。音楽とか美術とか、勉強するジャンルによってだいたい枠があって、その枠ごとに人数が決まっているという話だった。その頃は歴史、それも近現代史を専門にやりたい学生はあまりいなかったので、すんなり合格した。
ただし、試験はすべて口頭試験なので、イタリア人の試験官とイタリア語でやり取りをしなければならない。これが当時のわたしにはけっこうな問題であった。というのも、周囲にイタリア人などまったくいない時代で、イタリア語の会話など教えてくれる場所がなかったからだ。しかたがないので、渋谷のベルリッツでイタリア人の個人教授を三ヶ月ほど受けた。これはほんとうの付け焼き刃だったが、あとから考えるとなかなか役に立った。
試験は4月頃にやって結果はすぐに出る。そして、大学の新学年が始まるその年の秋にイタリアに向けて出発するというタイム・スケジュールであった。その半年ぐらいの間もベルリッツに通ったから、かなりの額をカネをイタリア語会話に投じたのであった。
シニョーラ・カマタという(日本人のコックと結婚している)イタリア人女性がベルリッツでのわたしの先生であった。年齢は30代の終わりぐらいだろうか。なかなか魅力的な女性で、毎回1時間のレッスンも楽しかった。
で、秋が来たが、イタリア大使館からはなかなか出発の期日を知らせる通知が届かない。問い合わせると「外務省がストライキをしている」とか「公教育省が機能しない」とか、いろいろ理由を述べ立てるが、要するにイタリアの官僚機構が非能率的だということしかわからない。それでも待つしかない。
結局、連絡があったのは11月も半ばを過ぎていた。それも「明日飛行機の切符を渡すから取りに来い」という非常にせわしない連絡である。ところが、1975年11月というのは、いまはなき国鉄の労働組合である国労と動労がストライキ権の回復を要求してストライキをやった、いわゆる「スト権スト」が延々と続いた時期なのである。三田のイタリア大使館や、虎ノ門にあったアリタリア航空のオフィスなど、国電を使わずに移動するのにずいぶん苦労した記憶がある。どこへ行っても大渋滞だったからだ。
そういうわけ羽田空港から南回りのアリタリア航空ローマ行きに乗ったのは11月25日ぐらいであった。羽田から出発したというところがいかにも時代を感じさせる。留学生はほとんどが一緒の便で、12、3名ぐらいいたように思う。同期の留学生のなかには音楽(声楽)をやっている女性たちもいた。こういう人たちは化粧などもうんと派手であり、ステージの上に夢がある世界の住人たちだから、それまでわたしがつき合っていたような女性たちとはまるで違っていておもしろかった。
この南回りのヨーロッパ便というのがなかなかおもしろくて、数時間飛んではあちこちの空港に降りて乗客を積み下ろしする。いまの12時間以上乗りっぱなしという直行便よりも身体も神経も楽だったような気がする。まあ、若かったからということもあるだろう。
それで、ローマに着いたのが金曜日の朝だった。羽田を出てから24時間以上経過していた。
初めてイタリアの土を踏んだのは1975年の11月のことだから、もう30年以上も前になる。大学院の博士課程1年目だった。身分はイタリア政府が出している奨学金をもらって行く給費留学生である。
留学生の試験は九段にあるイタリア文化会館で行われた。毎年の定員が10~15人ぐらいで、それほど倍率が高いわけではない。音楽とか美術とか、勉強するジャンルによってだいたい枠があって、その枠ごとに人数が決まっているという話だった。その頃は歴史、それも近現代史を専門にやりたい学生はあまりいなかったので、すんなり合格した。
ただし、試験はすべて口頭試験なので、イタリア人の試験官とイタリア語でやり取りをしなければならない。これが当時のわたしにはけっこうな問題であった。というのも、周囲にイタリア人などまったくいない時代で、イタリア語の会話など教えてくれる場所がなかったからだ。しかたがないので、渋谷のベルリッツでイタリア人の個人教授を三ヶ月ほど受けた。これはほんとうの付け焼き刃だったが、あとから考えるとなかなか役に立った。
試験は4月頃にやって結果はすぐに出る。そして、大学の新学年が始まるその年の秋にイタリアに向けて出発するというタイム・スケジュールであった。その半年ぐらいの間もベルリッツに通ったから、かなりの額をカネをイタリア語会話に投じたのであった。
シニョーラ・カマタという(日本人のコックと結婚している)イタリア人女性がベルリッツでのわたしの先生であった。年齢は30代の終わりぐらいだろうか。なかなか魅力的な女性で、毎回1時間のレッスンも楽しかった。
で、秋が来たが、イタリア大使館からはなかなか出発の期日を知らせる通知が届かない。問い合わせると「外務省がストライキをしている」とか「公教育省が機能しない」とか、いろいろ理由を述べ立てるが、要するにイタリアの官僚機構が非能率的だということしかわからない。それでも待つしかない。
結局、連絡があったのは11月も半ばを過ぎていた。それも「明日飛行機の切符を渡すから取りに来い」という非常にせわしない連絡である。ところが、1975年11月というのは、いまはなき国鉄の労働組合である国労と動労がストライキ権の回復を要求してストライキをやった、いわゆる「スト権スト」が延々と続いた時期なのである。三田のイタリア大使館や、虎ノ門にあったアリタリア航空のオフィスなど、国電を使わずに移動するのにずいぶん苦労した記憶がある。どこへ行っても大渋滞だったからだ。
そういうわけ羽田空港から南回りのアリタリア航空ローマ行きに乗ったのは11月25日ぐらいであった。羽田から出発したというところがいかにも時代を感じさせる。留学生はほとんどが一緒の便で、12、3名ぐらいいたように思う。同期の留学生のなかには音楽(声楽)をやっている女性たちもいた。こういう人たちは化粧などもうんと派手であり、ステージの上に夢がある世界の住人たちだから、それまでわたしがつき合っていたような女性たちとはまるで違っていておもしろかった。
この南回りのヨーロッパ便というのがなかなかおもしろくて、数時間飛んではあちこちの空港に降りて乗客を積み下ろしする。いまの12時間以上乗りっぱなしという直行便よりも身体も神経も楽だったような気がする。まあ、若かったからということもあるだろう。
それで、ローマに着いたのが金曜日の朝だった。羽田を出てから24時間以上経過していた。
by himitosh
| 2006-05-17 22:30
| イタリア