2006年 08月 24日
映画と歴史 5 「ハワーズ・エンド」 |
「ハワーズ・エンド」(ジェームズ・アイヴォリー監督)は1910年前後のイギリスが舞台の映画である。そこで展開される恋愛・結婚・生死・相続・社会的威信などをめぐる物語は簡単に要約できない。要するに階級社会の中で人間が生きていく道はどこにあるのか、という問題が大きなテーマなのである。
そう書くと、えらい難しい映画のような気がするかもしれないが、実際にはこれはきわめておもしろい大娯楽映画である。登場人物たちが複雑に絡み合ってストーリーが組み立てられていく。さまざまな色の縦糸と横糸によって複雑玄妙な布地ができていくのとよく似ている。
アイヴォリー監督の映画はどれもそうだが、この映画もキャスティングが見事である。エマ・トンプスンは中流階級のハイミスとして、アンソニー・(ハンニバル・レクター)・ホプキンスは成り上がりのビジネスマンとして、ヘレナ・ボナム・カーターはエキセントリックな娘として、それぞれぴったりである。脇役も申し分ない。
これは1992年の映画だが、わたしがE・M・フォースターの原作を読んだのは集英社の世界文学全集が出始めたときだから、たぶん高校生か大学の一、二年生のだった1960年代の終わりだったと思う。この文学全集はゴールディングの『蠅の王』とフォースターの『ハワーズ・エンド』を収めた巻が第一回配本だったからよく憶えている。いま考えると、これは20世紀文学の傑作から始めようというわけなのだろうが、ずいぶん渋い選択のように思う。
したがって、この映画を初めて見たときに感じたのは、「ああ、なるほどこういう感じだったのか」ということで、映画の利点を強く感じた。たとえば、エマ・トンプスンとボナム・カーターの姉妹の住むタウンハウスやハワーズ・エンドと呼ばれる別邸の様子などは、小説をいくら読んでもよくわからない。それが一目瞭然なのである。
こういう映画を見ていると階級社会が歴史の産物であることが骨身にしみてわかる。そういう意味でまことに教育的な映画だとわたしは考える。
そう書くと、えらい難しい映画のような気がするかもしれないが、実際にはこれはきわめておもしろい大娯楽映画である。登場人物たちが複雑に絡み合ってストーリーが組み立てられていく。さまざまな色の縦糸と横糸によって複雑玄妙な布地ができていくのとよく似ている。
アイヴォリー監督の映画はどれもそうだが、この映画もキャスティングが見事である。エマ・トンプスンは中流階級のハイミスとして、アンソニー・(ハンニバル・レクター)・ホプキンスは成り上がりのビジネスマンとして、ヘレナ・ボナム・カーターはエキセントリックな娘として、それぞれぴったりである。脇役も申し分ない。
これは1992年の映画だが、わたしがE・M・フォースターの原作を読んだのは集英社の世界文学全集が出始めたときだから、たぶん高校生か大学の一、二年生のだった1960年代の終わりだったと思う。この文学全集はゴールディングの『蠅の王』とフォースターの『ハワーズ・エンド』を収めた巻が第一回配本だったからよく憶えている。いま考えると、これは20世紀文学の傑作から始めようというわけなのだろうが、ずいぶん渋い選択のように思う。
したがって、この映画を初めて見たときに感じたのは、「ああ、なるほどこういう感じだったのか」ということで、映画の利点を強く感じた。たとえば、エマ・トンプスンとボナム・カーターの姉妹の住むタウンハウスやハワーズ・エンドと呼ばれる別邸の様子などは、小説をいくら読んでもよくわからない。それが一目瞭然なのである。
こういう映画を見ていると階級社会が歴史の産物であることが骨身にしみてわかる。そういう意味でまことに教育的な映画だとわたしは考える。
by himitosh
| 2006-08-24 20:18
| 映画