2007年 01月 30日
誰でも知ってるメディアの嘘 |
今回の納豆ダイエットをめぐるデータ捏造事件への反応として、「テレビを信じていたのに」とか「てっきり効果があると思って一日2パック食べてました」といった視聴者のコメントしか紹介されないのはどうしてだろう。「あんなもの嘘っぱちだと思ってましたので、やるわけないでしょう」とか「はじめから胡散臭いのはわかりきったことです」というような声は出てこない。
おそらく後者のほうがテレビを見ていた人のうちの多数を占めるのではないか。テレビの情報は「誇張半分・嘘半分」として受け取るのがまともな大人の正しい態度だとほとんどの人は了解しているとわたしは考えていた。テレビというメディアの草創期からその種のインチキややらせについては数多くの証言が残っているので、「テレビが嘘をつくなんて」などというナイーブな視聴者はたくさんはいないはずだ。
バラエティ番組の類はその種の「お約束」が前提にあって、「視聴者も真剣には受け取らない」のだから、制作側もそれなりにリラックスして作るのが当たり前であったように思う。
わたしは学生時代に在京のあるテレビ局で数ヶ月アルバイトをした経験がある。もう40年近く昔の話である。いろいろな仕事をあてがわれたのだが、ニュースの資料を用意するという仕事があった。たとえば、選挙報道で、国政選挙ではなくて地方選挙などの場合には特別な報道体制は敷かない。で、ネット局のない地方の選挙結果については情報が入ってこないので、アルバイトのひとりがNHKの番組をずっと観察して、そこで「当確」が出たら「どこそこの誰それ、当確が出ました」と叫ぶのである。そうすると、NHKに数十秒遅れて当確のテロップが出せるのである。「いやあ、テレビっていい加減なものだ」とそのときにしみじみ思った。
テレビの情報番組などは可能な限り安い制作費でてっとり早く手に入れられるデータを元にして作っているものと考えれば腹も立たないのである。だから、いくら批判されても番組製作の現場にいる人々は屁とも思っていないのではないか。
しかし、こういう考え方を敷衍させていけば、マスメディアのほとんどがその種の「お約束」の上に成立しているのが現実ではないか。どこかにそうした「お約束」をぶちこわす仕組みがないと、メディアとしてはそのうちに機能しなくなるように思う。いや、いまでもすでに機能していないかもしれない。その証拠に、テレビを日常的に見ている人の数が確実に減っていることは間違いないようだ。
おそらく後者のほうがテレビを見ていた人のうちの多数を占めるのではないか。テレビの情報は「誇張半分・嘘半分」として受け取るのがまともな大人の正しい態度だとほとんどの人は了解しているとわたしは考えていた。テレビというメディアの草創期からその種のインチキややらせについては数多くの証言が残っているので、「テレビが嘘をつくなんて」などというナイーブな視聴者はたくさんはいないはずだ。
バラエティ番組の類はその種の「お約束」が前提にあって、「視聴者も真剣には受け取らない」のだから、制作側もそれなりにリラックスして作るのが当たり前であったように思う。
わたしは学生時代に在京のあるテレビ局で数ヶ月アルバイトをした経験がある。もう40年近く昔の話である。いろいろな仕事をあてがわれたのだが、ニュースの資料を用意するという仕事があった。たとえば、選挙報道で、国政選挙ではなくて地方選挙などの場合には特別な報道体制は敷かない。で、ネット局のない地方の選挙結果については情報が入ってこないので、アルバイトのひとりがNHKの番組をずっと観察して、そこで「当確」が出たら「どこそこの誰それ、当確が出ました」と叫ぶのである。そうすると、NHKに数十秒遅れて当確のテロップが出せるのである。「いやあ、テレビっていい加減なものだ」とそのときにしみじみ思った。
テレビの情報番組などは可能な限り安い制作費でてっとり早く手に入れられるデータを元にして作っているものと考えれば腹も立たないのである。だから、いくら批判されても番組製作の現場にいる人々は屁とも思っていないのではないか。
しかし、こういう考え方を敷衍させていけば、マスメディアのほとんどがその種の「お約束」の上に成立しているのが現実ではないか。どこかにそうした「お約束」をぶちこわす仕組みがないと、メディアとしてはそのうちに機能しなくなるように思う。いや、いまでもすでに機能していないかもしれない。その証拠に、テレビを日常的に見ている人の数が確実に減っていることは間違いないようだ。
by himitosh
| 2007-01-30 14:17
| 社会