2007年 04月 15日
はじめての自転車 |
以前に書いたことがあるかもしれないが、わたしが生まれ育ったのは大阪の街中である。通天閣の真下あたり、といってもわたしが子どもの頃、通天閣は影も形もなかった。あれはわたしが小学校2年生ぐらいのときに再建されたものだ。(もともとあった通天閣は第二次大戦中に資材利用のために解体されたのである。)
今でもあのあたりへ行けばすぐにわかるが、わたしの子ども時代もひどく柄の悪い土地であった。大阪全体がそれほどお上品な街ではないが、あのあたりはそのなかでも飛び抜けて柄の悪い地域である。「じゃりン子チエ」というマンガがあるが、あのマンガには主人公の少女の父親をはじめとして「何をして食べているのかよくわからない人たち」が大勢出てくる。わたしには何となくああいう人たちがいるのが実感としてよくわかるのである。
さて、実は商売をやっていたわたしの家には子ども用の自転車があった。その頃、子ども用の自転車がある家は実に珍しかった。自転車は立派な交通手段・輸送手段で大人が使うものであった。子どもの遊びの道具ではなかった。だから、たいていの子どもたちは大人用の自転車のフレームの間に足を差し入れて乗る「三角乗り」というやり方で自転車に乗っていた。
わたしの家を訪ねてきて「うちの子どもにちょっと乗せてやってほしい」と頼み込む人がいた、と今でも母親は言う。ことほどさように、子ども用自転車は貴重品だった。昭和20年代の話である。
わたしもこの家の自転車で自転車に乗ることをおぼえた。
ところが、上に5人も姉兄がいるので、末っ子のわたしが乗る頃にはもうすっかり自転車そのものがくたびれてしまっていた。早い話、ブレーキなどはさっぱり効かないので、靴底を地面につけてその摩擦で止まるしかなかった。まあ、子どものことだからそんなにスピードを出さないので、これでも大丈夫だったのだろう。
しかし、あるとき天王寺の丘の上から自転車で降りたときがあって、このときは本当に肝を冷やした。とにかく全然止まらないし、スピードが落ちない。もうこれは絶対怪我をすると思ったが、なんとか転ばずに下まで降りることができた。あのときの恐怖は、半世紀以上経過したいまでもはっきりおぼえている。
この自転車で大阪のあちこちをずいぶん走り回った。土地勘がよくて迷子にならない子どもだったとはいえ、小学校1年生がフラフラと自転車で走っていても問題なかった時代なのだ。今同じことができるとはとても思えない。
わたしにとって自転車はいい思い出とつながっている。
今でもあのあたりへ行けばすぐにわかるが、わたしの子ども時代もひどく柄の悪い土地であった。大阪全体がそれほどお上品な街ではないが、あのあたりはそのなかでも飛び抜けて柄の悪い地域である。「じゃりン子チエ」というマンガがあるが、あのマンガには主人公の少女の父親をはじめとして「何をして食べているのかよくわからない人たち」が大勢出てくる。わたしには何となくああいう人たちがいるのが実感としてよくわかるのである。
さて、実は商売をやっていたわたしの家には子ども用の自転車があった。その頃、子ども用の自転車がある家は実に珍しかった。自転車は立派な交通手段・輸送手段で大人が使うものであった。子どもの遊びの道具ではなかった。だから、たいていの子どもたちは大人用の自転車のフレームの間に足を差し入れて乗る「三角乗り」というやり方で自転車に乗っていた。
わたしの家を訪ねてきて「うちの子どもにちょっと乗せてやってほしい」と頼み込む人がいた、と今でも母親は言う。ことほどさように、子ども用自転車は貴重品だった。昭和20年代の話である。
わたしもこの家の自転車で自転車に乗ることをおぼえた。
ところが、上に5人も姉兄がいるので、末っ子のわたしが乗る頃にはもうすっかり自転車そのものがくたびれてしまっていた。早い話、ブレーキなどはさっぱり効かないので、靴底を地面につけてその摩擦で止まるしかなかった。まあ、子どものことだからそんなにスピードを出さないので、これでも大丈夫だったのだろう。
しかし、あるとき天王寺の丘の上から自転車で降りたときがあって、このときは本当に肝を冷やした。とにかく全然止まらないし、スピードが落ちない。もうこれは絶対怪我をすると思ったが、なんとか転ばずに下まで降りることができた。あのときの恐怖は、半世紀以上経過したいまでもはっきりおぼえている。
この自転車で大阪のあちこちをずいぶん走り回った。土地勘がよくて迷子にならない子どもだったとはいえ、小学校1年生がフラフラと自転車で走っていても問題なかった時代なのだ。今同じことができるとはとても思えない。
わたしにとって自転車はいい思い出とつながっている。
by himitosh
| 2007-04-15 20:03
| 自転車