カテゴリ:記憶のきれぎれ |
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2008年 08月 06日
松本サリン事件の前後のことになるが、信州大学松本キャンパスでもオウム真理教が活動していた。麻原彰晃が大学祭に来たこともあった。サリン事件自体が松本にあったオウム真理教の「道場」の立ち退きをめぐる訴訟を原因として引き起こされたものであり、当時の松本はオウム真理教の活動の拠点のひとつだった。
人文学部にも信者がいたのである。 当時もう存在しなくなっていた人文学部学生自治会の再建運動をやっていたグループがいて、その中心になっていたのが信大のオウム真理教信者のリーダーであった。ただ、やはり彼らは学生たちの間では気味悪がられていてあまり人望がなく、結局この自治会再建運動は頓挫したのであった。 サリン事件のあとも数年は大学内で活動していたように記憶している。 その頃のオウム真理教に対するわたしの印象も「気味が悪い」というものだった。大学祭に彼らが「来世占い」とかいう催しを出していたのを憶えているが、その飾りつけとか衣装とかが何ともいえないような気持の悪さで、遠巻きに眺めていた。 学生だった頃に駒場の並木通りで小さな黒板を立てて、誰も聞いていないのに大声で説教している原理研の学生に対してもこれと似たような気持の悪さを感じた。ただ、あれは行動様式に対する不快感だったが、オウムの場合は存在それ自体への不快感といえる。 人間が宗教に救いを求める気持は理解できないでもないが、それを他者に広めるために過剰な情熱を燃やす姿はどうにも受け入れることができない。
2008年 08月 05日
松本サリン事件の第一通報者で当初は容疑者扱いされた河野義行さんの妻澄子さんが亡くなった。実に14年間も意識が戻らぬままの入院生活を続けていた。ほんとうに気の毒としか言えない。以前にもこのブログに書いたことがあるかもしれないが、1994年6月27日夜に発生した松本サリン事件の当時、わたしは事件現場から直線距離で200mぐらいのところに住んでいた。 暑くて寝苦しい夜だったので窓は開け放していたのだが、夜の間にやたらと救急車のサイレンの音が聞こえた。わたしの家のすぐ近くに大きな病院があったため、「これは高速道路かどこかで大きな事故でもあって、怪我人が大勢運び込まれているのだろう」と考えていた。 ところが、朝になると上空をたくさんのヘリコプターが飛び交ってうるさくてしかたがない。そうこうしているうちに、東京にいる母や知人たちから無事を確認する電話がかかり始めた。「テレビを見なさい」という母の言葉にスイッチを入れてみると、大勢の死者・患者が出ているというニュースにビックリ。 あとからわかったことだが、事件当夜は南から北に向かって風が吹いていたために、散布されたサリンは現場の北側に多くの被害をもたらした。わたしの住んでいた家は現場よりも南側に位置していたおかげで助かったのである。南側には病院があったので、風向きが逆だったとしたら、そこでも大きな被害が出ていたものと思われる。 はっきり言ってオウム真理教の行動は滅茶苦茶である。その流れを継ぐ宗教団体が今も存在しているということが信じられない。 とにかく、オウム関係のニュースが報道されるたびに「他人事ではない」という想いが蘇るのである。
2008年 07月 29日
今朝の朝日新聞の一面には、左にあげた神戸市役所のホームページからの三枚の写真が掲載されている。昨日の局地的豪雨のために川遊びをしていた子どもたちが流されて死亡したニュースの関連写真である。最初の写真は14時15分頃の、子どもが流された現場から150m上流にある神戸市建設局の監視カメラの映像である。川で遊んでいる子どもたちが写っている。 それから30分ほどあとの14時50分頃が次の写真である。実際のところわたしが住んでいるあたりでも昨日は滝のような雨が降った。あの雨が神戸のような傾斜地にまとまって降れば、こうした状況になるのは十分想像できる。また、非常に局地的な雨というのも厄介なものだ。二、三日前にやはりクルマで出かけていたとき、自宅近くでものすごい雨に見舞われた。ところがそこから距離にして1kmも離れていないわたしの家ではまったく雨が降っていなかったのである。別の場所で豪雨が降っていることに気づけないのにも無理はない。 おまけに神戸は都市化が進んでいるから、降った雨が木や土で吸収されることがほとんどなくて、排水溝から川に流れ込んだのも影響しているだろう。 それでも、状況の変化がきわめて速かったとはいえ、これは周囲にいた大人がきちんと判断しないといけないと思う。経験の乏しい子どもには逃げなくてはいけないことなど絶対にわからないだろう。 最後の写真はそれから1時間後の15時50分頃の写真である。もうずいぶん水は引いている。川といっても水を集める範囲が狭いからだろう。今から半世紀昔になるが、小学校2年から3年生の約1年半ほど、わたしは大阪の郊外で暮らしたことがある。そこには大和川という川が流れていた。現在ではこの川は水質汚染全国ワースト1という汚い川だが、その頃はまだ川遊びができるぐらい綺麗な水が流れていた。 そして、夏の遊びのなかで川遊びぐらい楽しいものはあまりなかったように思う。浅い川で魚を追いかけたり、水路を作ったりするのはほんとうにおもしろかった。 だから遊びに夢中になる子どもの気持はよくわかる。 しかし、やはり今思うと、あれもけっこう危険な遊びだったのかもしれない。つねに大きな子どもたち(中学生ぐらい)と一緒だったから、彼らが気を配ってくれていたのだろう。 今回の事故は不可抗力とも考えられるが、大人も子どもも自然の恐ろしさをわきまえておく必要があるのではないか。 <追記> その後の報道を見ていると、この川は「河川」というよりは「排水路」と呼んだほうが正しいようだ。降った雨をまとめて海に流すことが主たる目的で、川として利用することは副次的な目的といえる。それを親水公園化してしまっていたわけである。 やっぱり水は怖いものだと思う。
2008年 07月 18日
![]() おそらく1985年の夏だったと思う。会議のために京都に行ったのがちょうど祇園祭の時期だった。午後から会議をやって、そのあと夕食をとり、宵山の人混みのなかを歩いた。 翌日は山鉾巡行の日だが、これは前にも見物したことがあったのでパスし、伊勢を経由して東京へ帰ることにした。つまり京都→伊勢→豊橋→東京という経路である。わたしは軽度の鉄オタクなので、乗り物に乗ったり、こういう行程を考えたりするのが好きなのである。この経路なら、近鉄・フェリーボート・バス・新幹線を乗り継げるので楽しかろうと思ったのだ。 朝早くに京都を出て伊勢に向かった。大和八木で乗り換えれば、あとは伊勢まで直行なのでさして時間はかからない。午前10時過ぎに伊勢について神宮を参拝した。 夏の暑い時期でも大木の多い神宮の神域は涼しく感じた。京都とは大違いである。時間にせかされるわけでもなかったので、外宮・内宮をのんびりと歩いた。参拝客はまことに少なかった。 歩いているうちにある若いカップルと何回かすれ違った。女性は白っぽいワンピース、男性は短髪で白いワイシャツにネクタイ、ジャケットを手にしていた。二人とも20代で一見して新婚旅行風であった。 伊勢神宮にはたくさんのお宮がある。それを解説書を手に順番に見学しているうちに、ある人気のないお宮の前で先ほどのカップルを目撃した。なぜ「目撃」と書いたかというと、このカップルがそこで土下座をしていたのである。 文字通り「平伏」というスタイルで、べたーっと地面にひれ伏している。男性はきちんと上着を着て、女性はそれより二歩ほど下がった位置で、それぞれ土下座をしていた。 何だか見てはいけないものを見たような気がしてその場を立ち去ったが、このかたがたはおそらくある種の政治的立場、宗教的立場をお持ちなのであろう。ただ、まあ、そのようなものをこんなに身近に見たことがなかったので一瞬ぎくりとしたのである。 今でも伊勢神宮の写真を見ると、あのときの土下座カップルのことが目に浮かぶ。
2008年 07月 17日
昨日と今日が京都の祇園祭だという話だが、この祭をわたしは何回か見たことがある。それはいずれも祭見物が目的ではなく、京都での何かの用事が祭と重なったからだった。で、祇園祭だが・・・・ひどく暑い祭という印象がある。そもそも京都というところが盆地のためか、夏の暑さは相当なものだ。この写真の宵山のときは湿気がすごくて、ジットリと暑かった記憶がある。その上にものすごい人混みで空気も悪く、ラッシュアワーの新宿駅のなかを歩いているような感じがした。 そして翌日の山鉾巡行はカンカン照りの日差しを避ける場所もなくて見物した。これもかなりつらいものだ。ジリジリと太陽に灼かれ、ダラダラ汗がしたたり落ちるなかで楽しめる人はそう多くあるまい。 祇園祭を見てつくづく思うのは、祭は見るものではなくて参加するものだということである。それがたとえ有名な祭でも、見るに値するものは意外に少なかったり、一瞬で終わったりすることが多い。だから、祭のプロセス全体を楽しむためには、見物ではなく参加がすることが必要なのである。 < 前のページ次のページ >
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