2006年 02月 09日
バレンタインデーとチョコレート |
1948年生まれのわたしの世代の場合、中学・高校時代にはバレンタインデーという風習がまったく存在しなかった。チョコレート会社のマーケティング戦略が効果をあげ始めたのは1970年代に入ってからだろう。とにかく、あのような騒ぎが始まったとき、思春期をほぼ終えていたのは幸いであったと思う。
そもそもわたしたちの子ども(小学校低学年)時代にはチョコレートというお菓子はめったに食べられるものではなかった。年に数回程度、たとえば遠足に行くときにお菓子を持っていくことが許可され、そういうときに限ってチョコレートを食べることができた。わたしの家が特別貧しかったとは思えない。要するにそういう時代だった。おやつといっても、たいていは饅頭とか飴とか煎餅とか、そういう和風のものがほとんどだった。
だから、「お父さんはチョコレートなんかもらわなかったぞ」と子どもに言うと、「じゃあ、お饅頭をもらったんだね」と彼らは理解するのである。バレンタインデーのプレゼントでもらった草加煎餅を縁側で渋茶を飲みながらカップルで食べるのもいいかもしれない。バレンタインデーが日本ではたかだか30年ぐらいの歴史しかない習慣であるとは子どもには想像もできないようだ。
だが、若者たちの立場に立ってバレンタインデーのプレゼントを考えると、もはやほとんど意味がないものではないか。もらう側からすれば「とくに食べたい物ではないのでもらわなくてもいいが、もらえないことが即<もてない>ことを示すことになるのはなんとなく面白くない」わけだし、あげる側からすれば「別段あげたいわけでなくても、立場上やらないわけにはいかない」というようなケースが多いのではないかと想像する。
結果としてチョコレート会社の思うつぼにはまっていく。
昨今の男女交際のあり方から考えると、バレンタインデーとかクリスマスとかがカップルにとって特別なイベントである意味はどんどん薄くなっているのではないか。意味があるとすれば、それはほとんど少女マンガの世界にしか残っていない。コマーシャリズムにうまく乗せられているのは、若者たちよりもずっと上の世代かもしれない。
そもそもわたしたちの子ども(小学校低学年)時代にはチョコレートというお菓子はめったに食べられるものではなかった。年に数回程度、たとえば遠足に行くときにお菓子を持っていくことが許可され、そういうときに限ってチョコレートを食べることができた。わたしの家が特別貧しかったとは思えない。要するにそういう時代だった。おやつといっても、たいていは饅頭とか飴とか煎餅とか、そういう和風のものがほとんどだった。
だから、「お父さんはチョコレートなんかもらわなかったぞ」と子どもに言うと、「じゃあ、お饅頭をもらったんだね」と彼らは理解するのである。バレンタインデーのプレゼントでもらった草加煎餅を縁側で渋茶を飲みながらカップルで食べるのもいいかもしれない。バレンタインデーが日本ではたかだか30年ぐらいの歴史しかない習慣であるとは子どもには想像もできないようだ。
だが、若者たちの立場に立ってバレンタインデーのプレゼントを考えると、もはやほとんど意味がないものではないか。もらう側からすれば「とくに食べたい物ではないのでもらわなくてもいいが、もらえないことが即<もてない>ことを示すことになるのはなんとなく面白くない」わけだし、あげる側からすれば「別段あげたいわけでなくても、立場上やらないわけにはいかない」というようなケースが多いのではないかと想像する。
結果としてチョコレート会社の思うつぼにはまっていく。
昨今の男女交際のあり方から考えると、バレンタインデーとかクリスマスとかがカップルにとって特別なイベントである意味はどんどん薄くなっているのではないか。意味があるとすれば、それはほとんど少女マンガの世界にしか残っていない。コマーシャリズムにうまく乗せられているのは、若者たちよりもずっと上の世代かもしれない。
by himitosh
| 2006-02-09 19:29
| 文化一般