2006年 09月 27日
カシアス・クレイあるいはモハメド・アリをめぐって |
ボクシングはわたしの愛好する(観戦することが好きな)スポーツのひとつである。その昔「ダイヤモンド・グローブ」とか「チャンピオン・スカウト」といった名称のテレビ番組があって、毎週ボクシングのテレビ中継が行われていた。わたしが中学生ぐらいの頃だったと思う。父親が好きだったこともあってそういう番組をよく見ていた。
そういうわけで日本のボクサーも大場政夫とか輪島功一ぐらいまで、ということは1970年代の前半まではかなりはっきりと記憶している。それ以後はあまりボクシングを見なくなってしまった。
最近息子がボクシング映画をいくつかDVDで見て質問をするもので、いろいろと思い出すことが多い。で、「どのボクサーが一番好きだったか?」と聞かれて「やっぱりカシアス・クレイ時代のアリだな」とわたしは答えた。
この左の写真はクレイがソニー・リストンをノックアウトして世界チャンピオンになったときのものだが、1964年の2月のことである。この試合をわたしはリアルタイムでは見ていない。なぜかというと、衛星中継が始まったのが同じ年の11月、ケネディ暗殺のときだったからである。また、衛星中継は時差があるので、アメリカで夜に行われるボクシングの試合は日本では昼間になってしまう。ところが、わたしチャンピオンになってからのクレイのボクシングを何回かリアルタイムで見ている。
わたしが通っていた都立高校は東京の場末にあって、まわりにはたくさんの飲食店があった。で、わたしたちは教師から外出許可証をもらって昼飯を学校の外で食べるのが習慣だった。そういう店のひとつに洋食屋があって、そこでいつもテレビを見ていた。そういう時間に何回かクレイのボクシングを見たのだ。
「蝶のように舞い、蜂のように刺す」とクレイ自身が言っているが、まさにその形容はピッタリであった。今まで大勢のボクサーを見てきたが、あの時代のアリのものほど美しいボクシングはなかったと思う。22歳でチャンピオンになったから20代の前半、ボクサーとしては全盛期だった。フットワークの軽さ、完璧なディフェンス、教科書を見ているようなパンチ。見ていてうっとりするほどだった。ヘビー級ではほとんどがベタ足で鈍い動きのボクサーなので、クレイの存在は異質だった。もっと軽いクラスでも彼ほど軽く動けるボクサーはいないのではないか。
徴兵拒否でタイトルを剥奪されたのが1967年。カムバックしてフレイジャーに負けたのが1971年。キンシャサでフォアマンからタイトルを奪ったのが1974年。しかし、フレイジャーとのカムバック戦のアリはもはや昔のアリではなかった。「キンシャサの奇跡」のときのアリの闘い方もボクシングとしてはそう美しいものではなかったと記憶している。
ボクシング・ファンとしてはあの全盛期のクレイのボクシングをもっと見たかった。アリの試合がDVD化されているが、そのほとんどはカムバック以降のものでそれでは彼の真価はわからないのではないかと思う。
最近ときおり日本のボクサーを見ることがあるのだが、スタイルとして美しくないボクシングばかり目につく。フットワークとかダッキング、スウェイング、ブロックなどの防御技術、ジャブ・ストレート・フック・アッパーなどのパンチの出し方、どれをとっても技術的に低いボクサーばかりである。ボクシングはたんなる殴り合いではないのである。
スポーツを極めると芸術に近くなる。その最良の例がクレイ時代のアリのボクシングである。
<追記>
大学でT澤先生から「クレイはチャンピオンになった翌日にアリに名前を変えているので、ボクサーとしての経歴のほとんどはアリで闘っている」という指摘を受けた。Wikipediaで調べてみたら、次のようなことがわかった。
クレイはチャンピオンになってすぐ自分がブラック・モスレムの一員であることを明らかにし、名前を「カシアスX」と変えた。クレイという姓は奴隷時代の祖先から受け継いだものとして拒否したのだ。(これはブラック・モスレムのメンバーであったマルコムXと同じ行動である。)
その後ブラック・モスレムの指導者イライジャ・ムハンマドから「モハメド・アリ」という名前を与えられる。それが彼の「真の名前」であるとして。
しかしながら、この改名を受け入れたジャーナリストはごく少数で、アメリカでも日本でもずっと「カシアス・クレイ」という名前が使われていた。だから、高校生のわたしが彼のことを「クレイ」と記憶していたのはそれなりに理由はある。
それからもうひとつ。上で使っている写真は、1964年のタイトル奪取の際のものではなくて、翌年の再戦(1ラウンドKO勝ち)の際のものだそうだ。これもT澤先生のご指摘である。訂正しておく。
そういうわけで日本のボクサーも大場政夫とか輪島功一ぐらいまで、ということは1970年代の前半まではかなりはっきりと記憶している。それ以後はあまりボクシングを見なくなってしまった。
最近息子がボクシング映画をいくつかDVDで見て質問をするもので、いろいろと思い出すことが多い。で、「どのボクサーが一番好きだったか?」と聞かれて「やっぱりカシアス・クレイ時代のアリだな」とわたしは答えた。
この左の写真はクレイがソニー・リストンをノックアウトして世界チャンピオンになったときのものだが、1964年の2月のことである。この試合をわたしはリアルタイムでは見ていない。なぜかというと、衛星中継が始まったのが同じ年の11月、ケネディ暗殺のときだったからである。また、衛星中継は時差があるので、アメリカで夜に行われるボクシングの試合は日本では昼間になってしまう。ところが、わたしチャンピオンになってからのクレイのボクシングを何回かリアルタイムで見ている。
わたしが通っていた都立高校は東京の場末にあって、まわりにはたくさんの飲食店があった。で、わたしたちは教師から外出許可証をもらって昼飯を学校の外で食べるのが習慣だった。そういう店のひとつに洋食屋があって、そこでいつもテレビを見ていた。そういう時間に何回かクレイのボクシングを見たのだ。
「蝶のように舞い、蜂のように刺す」とクレイ自身が言っているが、まさにその形容はピッタリであった。今まで大勢のボクサーを見てきたが、あの時代のアリのものほど美しいボクシングはなかったと思う。22歳でチャンピオンになったから20代の前半、ボクサーとしては全盛期だった。フットワークの軽さ、完璧なディフェンス、教科書を見ているようなパンチ。見ていてうっとりするほどだった。ヘビー級ではほとんどがベタ足で鈍い動きのボクサーなので、クレイの存在は異質だった。もっと軽いクラスでも彼ほど軽く動けるボクサーはいないのではないか。
徴兵拒否でタイトルを剥奪されたのが1967年。カムバックしてフレイジャーに負けたのが1971年。キンシャサでフォアマンからタイトルを奪ったのが1974年。しかし、フレイジャーとのカムバック戦のアリはもはや昔のアリではなかった。「キンシャサの奇跡」のときのアリの闘い方もボクシングとしてはそう美しいものではなかったと記憶している。
ボクシング・ファンとしてはあの全盛期のクレイのボクシングをもっと見たかった。アリの試合がDVD化されているが、そのほとんどはカムバック以降のものでそれでは彼の真価はわからないのではないかと思う。
最近ときおり日本のボクサーを見ることがあるのだが、スタイルとして美しくないボクシングばかり目につく。フットワークとかダッキング、スウェイング、ブロックなどの防御技術、ジャブ・ストレート・フック・アッパーなどのパンチの出し方、どれをとっても技術的に低いボクサーばかりである。ボクシングはたんなる殴り合いではないのである。
スポーツを極めると芸術に近くなる。その最良の例がクレイ時代のアリのボクシングである。
<追記>
大学でT澤先生から「クレイはチャンピオンになった翌日にアリに名前を変えているので、ボクサーとしての経歴のほとんどはアリで闘っている」という指摘を受けた。Wikipediaで調べてみたら、次のようなことがわかった。
クレイはチャンピオンになってすぐ自分がブラック・モスレムの一員であることを明らかにし、名前を「カシアスX」と変えた。クレイという姓は奴隷時代の祖先から受け継いだものとして拒否したのだ。(これはブラック・モスレムのメンバーであったマルコムXと同じ行動である。)
その後ブラック・モスレムの指導者イライジャ・ムハンマドから「モハメド・アリ」という名前を与えられる。それが彼の「真の名前」であるとして。
しかしながら、この改名を受け入れたジャーナリストはごく少数で、アメリカでも日本でもずっと「カシアス・クレイ」という名前が使われていた。だから、高校生のわたしが彼のことを「クレイ」と記憶していたのはそれなりに理由はある。
それからもうひとつ。上で使っている写真は、1964年のタイトル奪取の際のものではなくて、翌年の再戦(1ラウンドKO勝ち)の際のものだそうだ。これもT澤先生のご指摘である。訂正しておく。
by himitosh
| 2006-09-27 19:07
| スポーツ